日本人的季節感性

Posted on 08/24/2012

日本人的季節感性

夏になると、蝉の声が象徴的に登場するアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」を見たくなる。また一方で、真冬の夜に暖房の効いた部屋でエヴァンゲリオンを見ていると、開放的でギラギラした夏を待ち焦がれるのだ。ただ、エヴァンゲリオンの舞台である2015年の日本は一年中夏であり、四季がない。2000年に起きた「セカンド・インパクト」と呼ばれる災害が原因で南極大陸が消滅し、地球が温暖化したためだ。
セカンド・インパクト後に生まれた子供達は蝉の声をどこかで聴いて夏を待ち焦がれることはない。それは勿論、夏の存在しか知らないからだ。しかし、現代の日本には四季があるために、エヴァンゲリオンの中で夕暮れに鳴くヒグラシの声が、現実の世界にいる我々に夏への慕情を抱かせる。

蝉の鳴き声に加え、スイカを育てる登場人物や屋外プールにおける水泳の授業など、夏の象徴ともいえるアイコンによって我々日本人は、このアニメにおける季節が夏であることを容易に理解することができる。日本人は季節に対して敏感であり、季節から何かを感じたり連想したりする、「季節感性」とでもいうべき優れた感覚を持っているのだ。
日本人は古来より、緑に囲まれた自然豊かな大地から恩恵を授かってきた農耕民族である。豊かな自然の中で四季がうつろうということは、大雨や台風、大雪などと様々な厳しい自然災害とも隣合わせだということを意味する。日本人は恩恵を与えてくれる暖かな自然、そして育てた農作物を一瞬にして壊滅させる恐ろしい自然に神々が宿ると信じ、そんな自然を祀り、敬い、畏れてきた。

一方で欧米人は自然を対立するものとして考えてきた。自然を支配しようとしてきた。神が複数存在するという思想は異端であり、天地創造をした絶対的な存在である神と契約をした人間は、自然の上に立つと認識されていた。自然科学の分野が欧米で発達した理由の一つには、自然をどうにか人間の頭脳で解明し、支配しようとしたという背景があるわけだ。

例えば、教会(教会堂)を頭の中にイメージしてみてほしい。極彩色に光るステンドグラス、天辺を尖らせて佇む背の高いフォルム、幾何学的できめ細やかな装飾、荘厳に描かれた壁画。そういったものが頭に浮かぶだろう。つまり、これは教会の建築物そのものである。

だが、寺や神社を思い浮かべようとした時、果たして本堂などの建築物だけを頭の中に想像するだろうか。そこには必ず穏やかな色彩の花を咲かせたり、生気に満ちて青々とした葉を揺らしていたり、あと少しで燃え尽きてしまうほどに赤く紅葉したり、裸になった肌寒い枝を白いおみくじで着飾られる木々達がいないだろうか。また、視覚だけでない五感に訴える情景も感じるはずだ。さらさらと葉を揺らす心地よい風が頬を撫でたり、湿気の漂うむんとした緑の匂いを感じたり、しっとりした鈴虫の歌声に心が洗われたり、坊主の掃く落ち葉が鳴らす乾いた音に年の瀬を感じたりしないだろうか。寺や神社の境内には自然が満ち溢れていて、日本人による自然との共生が表現されている最たる例であろう。ヴェルサイユ宮殿のように西洋人は自然を人間の手によって造形し、幾何学的な模様に自然をはめ込むような庭を造るが、日本人はなるべく自然の在るがままの姿を表現し、自然と同化するような感覚を生みだす庭を創る。また、日本古来の家屋が持つ軒先という存在は、自然と住居の境界を分けない日本人の価値観を現している。

こんな愉快なことがあった。学生時代に一時期、アメリカのオハイオ州に住んでいて、オハイオは冬になると気温が平均でもマイナス10度近くまで下がる、自分にとっては非常に寒さ厳しい土地であった。冬に入ったある日の朝、厚手のダウンジャケットを着用し寮から校舎までを移動をしている道中、アメリカンフットボールをやっているガタイのいい隣部屋の白人が、半袖のTシャツでのしのしと歩いていた。その日は晴れ渡る、高く澄んだ空が広がっていたけれど、気温は摂氏零度を優に下回っていたのでその姿に驚いた。ただ、彼はオハイオ出身だったし、体もがっしりしていたので寒さに強いのだろうと思っていた。
だが次の日、雪が降った。同じような気温だったと思う。自分は相変わらず厚手のダウンジャケットにフードを深々とかぶり、体を丸めながら登校をしていたら、隣部屋のガタイのいい白人にまた遭遇した。昨日、半袖のTシャツを着ていたそいつは、自分と同じようなダウンジャケットを着こんで、「まじで凍えるぜ。さみー!」と身を震わせていた。そんな姿を見て思わず、あきれ笑いをしたのを覚えている。

これは一部の人間に限られることだとは思いつつも、雪がふったから寒いと感じる、という感覚は日本人にはないとその時思った。雪がふらなくても日本人は空気の清涼さや肌触り、空模様、風の匂い、葉の色で季節や天気を敏感に感じることができる。「雨」一つとっても、にわか雨、霧雨、豪雨、春雨、五月雨、時雨、秋雨などと、微細な違いまで表現する言葉達が存在するのだ。ビジネスでもご近所でもタクシーに乗った時でも、会話の導入は天気の話だという習慣にそんな豊かな感覚が表れているとも言える。日本人が自然と共生してきた結果だ。

こういった日本人的「季節感性」は、日本文化にだって根付いている。俳句、短歌という伝統文化で考えた時、季語がなければ成立しないという点をあげると、それは今話している事の全てを表しているだろう。現代の日本において家屋に軒先はないし、あらゆる面での欧米化が進み、自然に対して共生ではなく支配という考え方が侵食してしまった部分もあるかもしれないが、それでも現代の音楽、例えばJ-POPなどのヒット曲で見てみても、四季を表す歌は多い。「さくら」という言葉が入った詞や曲なんぞ、どれだけあるかわからない。そういう曲が売れるということは、日本人には失われることのない「季節感性」が残っている一つの証拠だと思う。

これは日本人の誇るべき財産だ。折しも2011年3月11日の大震災によって、自然との向き合い方を考えなおさなければならないところまで来たのだ。自然は支配できないことを、我々はもう知っているだろう。改めて自然を畏れ、敬い、共生しようとすることが全ての出発点になるであろうし、それは古来より我々日本人が行ってきた当たり前のことではないだろうか。そしてその行為によって身に付けた感性は、自然の厳しさと向き合って乗り越えていく強さと、自然を享受する喜びや快感を与えてくれた。日本人の生活と精神性を豊かにするための誇るべきルーツが粛々と受け継がれてきたことを、我々は忘れてはならない。

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